Mag-log in日向芽衣は、明るい。
少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。
日向弁当の娘。
いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」
そう言われるのは、嫌いではなかった。
むしろ、嬉しかった。
自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。
沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。でも、たまに思う。
明るいって、便利な言葉だ。
明るい子は怒らない。
明るい子は面倒を拾える。第50話 悪意は、優しい顔をしている 悪意は、悪い顔をして来るとは限らない。 むしろ、本当に面倒な悪意ほど、ちゃんと靴を揃えて入ってくる。 笑顔で。 柔らかい声で。 心配しています、という看板を首から下げて。 あなたのために、と言いながら、こちらの玄関に手をかける。 怒鳴られた方が、まだ分かりやすい。 罵られた方が、まだ距離を取れる。 けれど、優しい顔をした悪意は厄介だ。 それは、自分が悪意かどうかすら分からない顔をしている。 その日の朝、神谷レンは、まだ何も言わなかった。 昨日、匿名ラジオから出した声明。『この場所は、誰かの正体を探す場所ではありません。 名前を確認するための場所でもありません。 個人同士の連絡や対話の有無を、動画や配信の材料として扱われることを望みません。 撮影目的、確認目的、詮索目的での来訪や接触はご遠慮ください。 商店街は、働く人、買い物をする人、休む人がいる生活の場所です。 過去の切り抜きや現在の拡散については、記録を保存しています。 必要に応じて、専門家へ相談します。 名前ではなく、今ここにある言葉を大切にします。 白湯はあります。』 投稿後、反応は大きかった。 賛成もあった。 批判もあった。 茶化しもあった。 なぜか「白湯はあります」が妙に広がった。 しかし、神谷レン本人は反応しなかった。 それがまた、不気味だった。 反応しないならしないで、こちらは考えてしまう。 見ていないのか。 様子を見ているのか。 次の言葉を準備しているのか。 それとも、周囲が勝手に火を運ぶのを待っているのか。 喫茶こもれびは、いつも通り開店した。
第49話 こちらの場を作る 相手の場に乗らない。 そう決めた翌朝、俺はまず、店の床を掃いた。 なぜ床なのか。 自分でも分からない。 だが、スマホを見る前に、配信を見る前に、切り抜きのタイトルを見る前に、何か手を動かしたかった。 喫茶こもれびの床は古い。 木目の間に、どうしても細かい埃が残る。 雨の日には靴の泥も入り込む。 商店街のアーケードは便利だが、風が強い日は紙くずも飛んでくる。 掃いても、掃いても、完璧には綺麗にならない。 それでも、掃かないよりはずっといい。 俺は箒を動かしながら、昨日の動画タイトルを思い出していた。「クロユウ、神谷レンの対話要請を無視。匿名ラジオ騒動、さらに泥沼へ」 泥沼。 足元を見るな、と源三さんは言った。 でも、足元が汚れているなら掃けばいい。 完全には綺麗にならなくても、掃く。 たぶん、今日やることはそれに近い。 神谷レンの場に出ていくのではなく。 向こうの配信に反応するのでもなく。 切り抜き動画のコメント欄で殴り合うのでもなく。 こちらの床を掃く。 こちらの場を作る。 俺が入口付近を掃いていると、店の扉が開いた。 ベルが鳴る。「おはよ。掃除してる」 芽衣だった。 片手に補給袋。 もう片方には、紙の束。 髪は跳ねているが、昨日よりは落ち着いている。 緊急度は中の下。「おはよう。何だ、その紙」「母さんが作った」「日向母さん
第48話 対話要請を無視 その動画のタイトルを見た時、俺は最初、何も感じなかった。 怒りでもない。 恐怖でもない。 吐き気でもない。 ただ、頭のどこかが一瞬だけ真っ白になった。「クロユウ、神谷レンの対話要請を無視。匿名ラジオ騒動、さらに泥沼へ」 見出しは、よくできていた。 短い。 分かりやすい。 怒りやすい。 そして、ものすごく雑だ。 対話要請。 無視。 泥沼。 それだけで、物語ができる。 神谷レンは歩み寄った。 クロユウは逃げた。 匿名ラジオ側は何かを隠している。 だから騒動は泥沼へ。 たった一行で、俺たちのここ数日の白湯も、会議も、こはるの札も、芽衣の昆布おにぎりも、源三さんの大根も、全部なかったことにされる。 いや、大根は入れなくていいかもしれない。 でも、それすら腹立たしい。 大根を煮るくらい、人間は必死に日常へしがみついていたのに。 動画は、真柴さんが共有してくれたものだった。 直接再生はしない。 内容の要約だけ。 けれど、サムネイル画像だけは見えてしまった。 昔の俺の顔。 黒い背景。 赤い矢印。 神谷レンの柔らかい笑顔。 そして、文字。「また沈黙?」「対話拒否」「彼女を守るため? それとも隠すため?」 うまい。 本当に、嫌になるくらいうまい。 こもれびのカウンターには、白湯が
第47話 返事をしない勇気 返事をしないことに、勇気がいるなんて思わなかった。 昔の俺なら、たぶん笑っていた。 返信ボタンを押さないだけだろ。 既読をつけたまま放っておくだけだろ。 無視すればいい。 ブロックすればいい。 そんなふうに、他人事なら簡単に言えた。 だが、自分のスマホの中に神谷レンからのDMが残っていると、話は違う。 画面を開かなくても、そこにあると分かる。 読んだ。 保存した。 返していない。 それだけの事実が、ずっと胸のあたりに小石みたいに残っている。 痛いわけではない。 でも、動くたびに当たる。 気になる。 忘れたふりをしても、ふとした瞬間に思い出す。 久しぶり。 ちゃんと話せないかな。 僕は君を責めたいわけじゃない。 君のためにも、彼女のためにも。 俺は、朝の喫茶こもれびで、いつもより早く豆を挽いていた。 がりがり、と音がする。 豆を挽く音は、少し乱暴なくらいがいい。 頭の中の言葉を、物理的な音でかき消してくれる。 ただし、乱暴に挽きすぎると、また味がまずくなる。 責任の量で豆を入れた時の失敗を、俺はまだ忘れていない。「黒瀬」 入口近くの席から、源三さんが言った。 いつもの新聞。 いつもの白湯。 足元には、なぜか昨日の大根の残り。 もう大根はこの店の準レギュラーになりつつある。「はい」「豆を恨むな」「恨んでません」「音が恨んどる」
第46話 連絡はしました 神谷レンは、予想通りに言った。 それはもう、腹が立つほど予想通りだった。 翌日の昼前。 喫茶こもれびは営業中だったが、客はいなかった。 正確には、八百屋の親父さんが「コーヒーじゃなくて水くれ」と言って水を飲んでいたし、源三さんは新聞を読んでいたし、芽衣は日向弁当の配達ついでにカウンターへ卵焼きを置いていたので、店内に人はいた。 だが、客かどうかはかなり怪しい。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置いている。 今日も声は休み。 真柴さんからの業務指示が続いている。 そして俺のスマホは、スマホ避難箱の中。 ……のはずだった。 こつん。 木箱の中で震えた。 全員がそちらを見る。 もう、この音だけで店内の空気が変わるようになってしまった。 木箱の震動音が、火災報知器みたいな扱いになっている。 芽衣が先に言った。「私が見る?」「いや、俺が見る」「顔が駄目そうだったら没収」「顔診断の基準が厳しすぎる」「今日は特別厳戒態勢です」 俺は木箱を開けて、スマホを取り出した。 通知は、匿名ラジオ関連ではない。 神谷レンの配信切り抜きを監視していた真柴さんからだった。『共有します。神谷さんが、昨夜のDMについて配信内で触れました』 俺の胃が、ゆっくり沈んだ。 来た。 分かっていた。 分かっていたのに、来るとやっぱり苦しい。 続けて、真柴さんから要約が送られてくる。
第45話 久しぶり。ちゃんと話せないかな 久しぶり。 その四文字が、いちばん嫌だった。 責めたいわけじゃない。 心配している。 誤解を解きたい。 君のためにも、彼女のためにも。 そういう言葉は、まだ構えられる。 来るぞ、と分かる。 優しい顔をした縄だと、こっちも分かっている。 首にかかる前に、少しは身を引ける。 でも。 久しぶり。 その言葉だけは、違った。 昔の扉を、勝手に開けてくる。 喫茶こもれびのカウンターに、俺のスマホが置かれている。 画面には、神谷レンからのDM。神谷レン:久しぶり。ちゃんと話せないかな。いろいろ大変なことになっているみたいで心配してる。昔のことも、今のことも、誤解があるなら解きたいと思ってる。僕は君を責めたいわけじゃない。むしろ、君のためにも、彼女のためにも、ちゃんと向き合いたい。 何度読んでも、文字は変わらない。 優しい。 柔らかい。 乱暴な言葉は一つもない。 だからこそ、吐き気がする。 怒鳴られた方がまだ楽だった。 罵倒された方が、俺はたぶん怒れた。 ブロックもできた。 スクショを保存して、「見ろ、こいつはこういう奴だ」と言えた。 でも、これは違う。 これを他人に見せたら、たぶん半分くらいの人は言う。 話せばいいじゃん。 向こうは心配してるだけじゃん。 責めたいわけじゃないって言ってるじゃん。 逃げてるのはそっちじゃないの? 分かっている。







